若かったあのころ、何も怖くなかった♪
ただあなたの優しさが怖かった♪
ただあなたの優しさが怖かった♪
こいつらずいぶんリア充じゃん?
なんて40年前の若者に喝を入れたくなりますが、それはさておき。
200万枚のセールスを記録した、かぐや姫の代表作「神田川」は、20分たらずで出来たものだったそうです。南こうせつが喜多条忠に作詞を依頼したのが、まさに「神田川」が生まれた日、締め切りは今日といわれてとりかかった仕事でした。
当時落合に住んでいた喜多条は、その日、バスで小滝橋を通ったときに、「神田川」という看板を見て、その川が神田川と知ったそうです。5年前にその下流である高田馬場での同棲生活を思い出しながら、15分で書き上げたのが「神田川」でした。
そして南に電話して詩を伝えたあと、南は曲ができたら折り返すといって、電話を切った五分後に、再度、電話が鳴ったときには曲ができてました。
早稲田大学に通っていた喜多条が神田川を知らないぐらいだから、大分県杵築市出身の南が、神田川を知るはずもありません。
こんないい加減な誕生物語ではあるが、後世には石碑が立つほどの成功物語となったのです。
いい加減といえば、この石碑、中野区の末広橋にある。まったくといっていいほど出鱈目です。
いつも行った横丁の風呂屋♪
一緒に出ようねって言ったのに、いつも私が待たされた♪
この風呂屋は中野区ではなく、早稲田大学の西門のほど近いところにありました。高田馬場の地名の由来している「高田馬場跡」のエリアです。早稲田の学生には「いもや通り」で通じます。
銭湯の名は「安兵衛湯」といい、忠臣蔵、赤穂浪士の堀部安兵衛による高田馬場の果たし合いがあった場所です。現在はカーサステラというマンションに変わっていおります。
銭湯の名は「安兵衛湯」といい、忠臣蔵、赤穂浪士の堀部安兵衛による高田馬場の果たし合いがあった場所です。現在はカーサステラというマンションに変わっていおります。
当時、喜多条は戸田平橋付近に下宿していた女子のところに転がりこみ、ここまで通っていたそうです。
なぜ男なのに風呂が長いのかについては、ここで鯉が飼われていて、ついつい見入ってしまったからだという説があります。
実はこのあたり、屈指のパワースポットとして知られております。
付近には中世の名高い道、旧鎌倉街道が、早稲田通りと新目白通りをつないでおり、その中間には明治9年設立の由緒ただしい戸塚第一小学校があります。面影橋の南側には甘泉園という湧水の湧く徳川家の御領(今は茶室が現存)があり、後に大隈重信公が住んでおりました。そしてもっとも極めつけは、旧風呂屋に隣接している水稲荷神社である。
大隈公が毎日お参りしたということから早稲田大学受験の神様となっているのみならず、「戸塚」の地名にもなった富塚古墳が境内にあり、無数のきつねが鎮座していらっしゃいます。
こんなところにある風呂屋だったから、そりゃ、歌にすればミリオンヒットになるわけなのです。
「三畳ひとまの小さな下宿」についても、どこにあったかがわかりました。
池間みち子というワセジョが住んでいた「窓の下には神田川」というアレです。
高田馬場駅からわりと近くの神田川の戸田平橋付近にありました。
どうやら高田馬場アドレスというマンションになっているようです。
早稲田に通う学生は4万人もいるのに、「神田川」のゆかりの地と知る人は数人ぐらいかと思います。
このまま知らずに卒業するのでしょう。
早稲田に通う学生は4万人もいるのに、「神田川」のゆかりの地と知る人は数人ぐらいかと思います。
このまま知らずに卒業するのでしょう。
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